てらまちフォト一覧

桜開花、花まつり準備スタート

お彼岸を過ぎたら、お寺の掲示板に「花まつり」「灌仏会」のお知らせが散見されるようになりました。灌仏会は4月8日で今年は金曜日。早いところでは4月1日から法要を行うところもあるようです。昨日3月27日の土曜日、すでに花御堂が準備されているお寺もありました。新宿区の宗柏寺です。掲示板には、4月3日の行列に参加するお稚児さんを募集する旨のポスターが貼られていました。写真では後姿ですが、愛らしい笑顔の白象を引いて、町内を行列するようです。花御堂も白い花で飾られ、ノーブルな華やかさ。東京の桜は開花したものの、その後あまり気温が上がらず、足踏みしています。今度の週末、ちょうど満開の花の下、矢来町で可愛らしいお稚児さんたちが見られそうですね。

桜開花、花まつり準備スタート

2016年3月28日公開  2016年03月27日撮影

彼岸の中日の鬼子母神手創り市

雑司ヶ谷鬼子母神で毎月第3日曜日に開催される「手創り市」。最初の開催から10年めになるとかで、最近は出店も来場者ももりもり。お彼岸の中日に開催された今回ですが、境内は穏やかに賑わっていました。一方、この日は都電雑司ヶ谷駅方面の参道で古本やリサイクルなどの「みちくさ市」が開かれていて、こちらも回を重ねるごとに出店者が増えているようです。近隣の古本屋さんだけでなく、関東近県からの出店もちらほら。軽く通り過ぎようかと思ったのに、あれこれ物色しながら1時間たっぷり過ごしました。お彼岸の中日ということもあってか、鬼子母神堂からは絶え間なくお護摩の太鼓や読経の声が流れてきていました。その後に散策した雑司ヶ谷霊園もお墓参りの方々の姿が多く見られました。東京でも桜の開花が発表されましたが、霊園の木々の花もまだまだこれから。お彼岸をすぎて、少しずつ春が増えていきますね。

彼岸の中日の鬼子母神手創り市

2016年3月23日公開  2016年03月20日撮影

新宿百人町の鉄柵と観音さま

新宿の繁華街を抜けて、職安通りを渡って新大久保のエスニックタウン方向へ。このあたりは百人町。伊賀組百人鉄砲隊の屋敷があったところで、南北に長い短冊形の街区が特徴です。その街区のひとつに、ぐるりと高い塀がはりめぐらされたところがありました。塀の上には「忍び返し」と呼ぶようですが、防犯の柵が付けられています。塀の中には建物が見えず、何のための防御だろう? と街区を回り込むと、柵の向こうに観音さまが現れるではないですか! 「北向観世音菩薩 厄除けの観音様です」と記されていますが、正面からだと鉄のトゲトゲの向こうです。観音さまの向かって右にやはり鉄の門扉があって、そこの上はトゲトゲがありません。そこで初めてその敷地が墓地であることがわかりました。こんなに厳重に囲んで、どんな脅威があるのでしょうか。

新宿百人町の鉄柵と観音さま

2016年3月22日公開  2016年03月19日撮影

祐天寺の住所は祐天寺じゃない

祐天寺は江戸時代中期に創建された浄土宗寺院。開山とされている祐天上人は、現在の福島県いわき市四倉の出身で、桂昌院(綱吉の母)の帰依を得て、伝通院住持、芝増上寺大僧正となった高僧です。祐天寺は上人の死後に高弟祐海が念仏道場を建立、祐天を開山としました。江戸時代は制約があって新たな寺院の建立はなかなかできませんでしたが、綱吉・家宣ら将軍やその大奥からの帰依を得たことから、このような大寺院の建立が叶ったようです。お寺は東急東横線の祐天寺駅から徒歩10分ほどの場所にあり、住居表示は中目黒5丁目。目黒区祐天寺の住居表示はお寺の前の駒沢通りと東横線に挟まれたエリア。地名としての祐天寺も比較的新しいということですね。上・中・下に整理されている目黒ですが、村だったころの名残を旧地名でたどるのも、また面白いですね。

祐天寺の住所は祐天寺じゃない

2016年3月18日公開  2016年03月12日撮影

油面から祐天寺へ

護国寺、泉岳寺、川崎大師、新井薬師など、駅名になっているお寺は数多くありますね。先日は東急東横線の祐天寺へ、ひとつ隣の学芸大学駅からひと駅さんぽ。その途中、「油面地蔵通り」という気になるサインを発見。「あぶらめん」は旧地名で、かつては菜の花畑が広がっていたとか。目黒区教育委員会による説明板には、以下のように記されています。「享保の頃、江戸は連年の飢饉や大火で生活困難のため多くの死者をだしましたが、その人たちの冥福を祈り救済を願って享保18年7月(1733)に祐天寺に於て供養が営まれ、六十六部供養塔とともに祀られました」お地蔵さまのいるこの通りは、屈曲はあるものの、北上していくと祐天寺へ到達します。目黒というと若い世代に人気のオシャレな街のイメージがありますが、かつては畑が広がり、集落が点在するのどかな村だったのでしょうね。

油面から祐天寺へ

2016年3月17日公開  2016年03月12日撮影

武家屋敷に佇む

「川越百景」モニターツアーは、「喜多院界隈と四門前めぐり」がテーマでした。元禄7年の川越城下の絵図片手に当時の痕跡を探りながら、脳内タイムトリップ。知恵伊豆と呼ばれた松平信綱による城下整備で十か町四門前が定められ、それが現在の川越のまちの骨格をかたちづくっているので、江戸時代の絵図でもちゃんと喜多院や四門前へもたどり着けます。喜多院は川越城の南に位置しますが、その間には武家地がありました。永島家は川越に残る唯一の武家屋敷で、御殿医の屋敷跡とされています。しかし、この武家屋敷がある七曲りの通りは、元禄の絵図には記載がありません。川越藩が拡大し、武士が増えることで武家地も拡大し、そこを縫うように道がつくられていったのだそうです。永島家の庭に佇む石像は観音様でしょうか、今は住まう人はないそうですが、大切にされている様子がカラタチの植え込みのむこうに垣間見えました。

武家屋敷に佇む

2016年3月4日公開  2016年02月27日撮影

妙正寺川に流れる色

染の小道」とは、かつて妙正寺川・神田川でさかんに行われた染色を軸に地域の活性化を図ろうというプロジェクトです。毎年2月頃に開かれるイベントの象徴となっているのが、妙正寺川に反物をたなびかせる「川のギャラリー」。中井や落合はふだんは落ち着いた住宅街なので、まずは人の多さに驚きましたが、布モノ好きの心をくすぐる工房やギャラリーの数々、染めの技法の見本市のような店先の暖簾で彩られた道、そこに漂う甘酒やパン、出汁などの香り・・・たくさんの愉しみがギュッと詰まっていて、そこに皆が惹きつけられてきたのがわかります。妙正寺川の源流は杉並区の妙正寺池。その池の畔にできたお寺の名前がその由来です。日蓮宗法光山妙正寺は室町時代の1352年創建の古刹。妙正寺川の源流から神田川との合流点から源流まで10km程度。今度は川に沿って、少々ロングなさんぽをしてみたいですね。

妙正寺川に流れる色

2016年3月3日公開  2016年02月28日撮影

お不動さんにご縁を

春は名のみの風の寒さや~♪ 散歩していると、「早春賦」のメロディが流れてきそうな気がする今日この頃。門仲へちょっと用事、その前に深川不動にお詣りしました。そのあとの用事の願かけの意味も込めて、おみくじも引いてみました。引いたのはなんと大吉! ここ数年お目にかかってなかったような気がします。用事に触れる項目を見ても、「いそぐがよし」とあり、これはいいぞと、目的地へ向かいました。ところで「門前仲町」という地名、富岡八幡宮の別当寺だった永代寺の門前だったことがその由来のようです。江戸切絵図の「本所深川絵図」を見ると、八幡様と同じ敷地に永代寺があり、その西側には「永代寺門前町」の区画が広がっています。古地図や切絵図などを見ながら町歩きをするのも楽しいエリアですね。

お不動さんにご縁を

2016年2月29日公開  2016年02月28日撮影

門前の川越まちあるき

「てら×まち×さんぽ」の中の人も運営のお手伝いをしている川越市主催の川越百景ツアー「喜多院界隈と四門前めぐり」の開催が、明日に迫りました。準備をしていて、中世から江戸、明治大正昭和と、その歴史が醸してきた川越の奥深さにグイグイ引き込まれています。今回はお寺に関する「百景」、しかも、「門前」「寺界隈」に絞ってまちあるきをします。そんなワケで、ブラタモリでも取り上げられた喜多院も、その周辺にある趣ある建物をめぐっていきます。この写真はそのうちのひとつ、喜多院の北、成田山川越別院の門の真正面にある「市野屋豆腐店」。明治43年の創業だとか!隣の銅板が貼られた看板建築とともに、味わい深い一画を成しています。喜多院のまわりに点在するこうした明治、大正、昭和初期の建物は、時代の厚みを醸しだし、界隈の魅力を深めています。

門前の川越まちあるき

2016年2月26日公開  2016年02月18日撮影

妙典の「神猿おちか」

干支のお像シリーズということで、昨夏のおさんぽでの一枚をご紹介。母猿に抱きつく6匹の子猿たち。市川市妙典は清寿寺の本堂前に鎮座する石像は、耳の守護神様。お寺では、目や耳、歯や手足など、体の一部に特定して怪我や病気にご利益があるというお像をよく見かけます。穏やかな面持ちの母猿とそれにしがみつく子猿たちでひとまとまりのこのお像にはちょっと可哀想ないわれがありますが、耳病守護の「神猿おちか」として、庶民の切なる願いを引き受けているのですね。なお、このお寺は、ぜんそく封じの祈祷としても知られているようです。合掌

妙典の「神猿おちか」

2016年2月22日公開  2015年07月11日撮影

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